『法華経』に学ぶ
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たのです。しかしながら舎利弗は、そのことを忘れ自身の可能性を否定し、低い段階での悟りで満足していたというのです。そこで釈尊は「舎利弗よ、私はあなたが過去世において真の仏道を志した本願を思い出させるため、あなたを始め多くの弟子たちに大乗経典の『妙法蓮華経』という教えを説くのです」とその真意を改めて明確にされました。つまり、舎利弗は過去世において釈尊の教化に浴し、真の仏道を志し自身の修行はもちろんのこと、他者も導く菩薩としての誓願のもとに修行を積んできたことが明かされたのです。そしてそのことを忘れ去っているが故に『妙法蓮華経』を説きあかし、声聞という立場で満足する舎利弗をはじめとする多くの弟子たちに、本来あるべき姿を覚醒させようとなされたのでした。 ところで、日蓮大聖人のお言葉に「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」とあります。ここでいう蘇生とは、死者が蘇えるというような意味ではありません。誤解を恐れずに大胆な表現を用いれば「価値観が変わる」というような意味合いです。蘇生するということは、当然その前提として死があるということですから、生のままでは蘇生と言わず、順序で言えば「生→死→生」となります。このたび舎利弗は『法華経』を拝聴することにより、真の仏弟子として、長子として蘇生したのですから、①「生」声聞という立場(価値観)から、②「死」自身を虚しくして釈尊の智慧の世界に没入することにより、③「生」その釈尊の智慧の大海によって菩薩という真の仏弟子の立場(価値観)へと蘇生したといえるでしょう。すなわちそれは「愚から賢へ」「劣から優へ」すなわち「価値観が変わる」また「人生観が変わる」あるいは「思考が変わる」等と解釈しても差し支えないかと思われます。-67-

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