『法華経』に学ぶ
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「歓喜踊躍」したのでしょう。この様子は重ねて偈げますと「大智舎利弗、いま尊そん記き(釈尊から与えられた成仏の予言)を受くることを得たり、我等また是の如く必ず当まさに作さ仏ぶつして」とあります。つまり、同じ門下生である舎利弗に成仏の予言がなされたということは、自分たちもまた、記別を受けることができるであろう、と予感したことから「心大に歓喜し踊躍すること無量なり」となったことが確認できます。さて、歓びに満ちあふれた仏弟子たちは、身に着けていたじ上ょう衣え(袈裟)を脱いで釈尊に捧げ供養しました。また神々の王である帝釈天や、娑婆世界の王である梵天王をはじめとする神々は、天上界のすばらしい天衣(衣服)をはじめ、この上ない芳香を放つ曼陀羅華、摩訶曼陀羅華という華を供養として、釈尊に捧げたのです。さらには天の音楽が奏でられ、さまざまな天上の華が釈尊に降三さん菩ぼ提だいの記を受くるを見て、心大に歓喜し踊躍すついに舎利弗は、華け光こう如にょ来らいという仏名を与えられ「未来世において必ず成仏する」という記き別べつを授かりました。舎利弗は大いに歓びましたが、この歓びは、舎利弗一人にとどまるものではありませんでした。経文には、その説法の座に列なる大勢の仏弟子たちの様子を「舎利弗の仏前において阿あ耨のく多た羅ら三さんみ藐ゃくること無量なり」とあります。すなわち、ほかの仏弟子たちもみな、舎利弗が記別を受けた姿を見て、舎利弗と同様に心に大いなる喜びを抱き、躍り上がって喜ぶことはかりしれなかった、というのです。記別を受けた舎利弗が「歓喜踊躍」することは納得できますが、なぜほかの仏弟子たちも    頌じゅにも記されていますが、経文を注意深く拝読し譬喩品第三⑤-72-

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