『法華経』に学ぶ
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素晴らしい「大白牛車」を子供の一人一人に与える長者には、つぎのような思いがあったのです。 『私は、無限の財産を所有している。だから、羊車、鹿車、牛車という劣った車を子供たちに与えるわけにはいかない。ここにいる子供たちは、みな私の子供であって、分け隔てなく平等に愛している。私は尽きることのない財産を保有しているから、たとえ国中のすべての人に、この最高の車「大白牛車」を与えたとしても、私の財産は枯渇することはないだろう』 「大白牛車」は、もともと子供たちが望んだ車ではありませんでしたが、父親である長者からそれを与えられた子供たちが、その車に乗ったところ、自分たちが望んだ羊車、鹿車、牛車とは比べようのない素晴らしさに大いに驚き、そして大いに喜びました。」 以上のようにして釈尊は『方便品』で説かれた内容を「三車火宅の喩え」という譬喩に託して舎利弗に話されたのです。ところで「譬喩」という言葉から、喩え話は幼稚であるとか、低い教えであるとか、さらには、真実から離れている、と誤解をされる場合がありますが、そうではありません。そのことについては、すでにお話したとおりで「譬喩」とは、仏教の真理や教理などを理解しやすいように、日常生活の身近なことに託して喩え「浅きに寄せて深き内容を教える」ということですから、譬喩の持つ働きは非常に重要であるといえます。さて三車火宅の喩えを話し終えられた釈尊は、舎利弗にお尋ねになられました。「舎利弗よ、あなたはどのように思いますか。長者は子供たちに『珍しい羊車、鹿車、牛車をあげるよ』と言って、子供たちを導きました。しかし、与えたのはそのいずれでもなく、一人一人の子供に平等に大白牛車を与えたのです。これは、いつわりではないでしょうか。」-78-   

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