『法華経』に学ぶ
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舎利弗は、直ちに返答します。 「釈尊よ、いつわりではございません。なぜなら長者は、無事に子供たちを火宅から門の外へと導いたからです。無事であればこそ、また命があればこそ、玩具を手にすることができましたから、いつわりなどではありません。仮に長者が、三車のうちの一つも与えなかったとしても、それはいつわりではありません。それは、もとより長者は方便を使って子供たちを外に出そうと考えていたからです。なによりも長者は、すべての子供たちに、平等に大白牛車を与えたわけですから、いつわりなどではありません。」舎利弗の返答に釈尊は「よろしいです。あなたの言うとおりです。」とその答えの正しさをお認めになられました。 先の『方便品』で、釈尊は大いなる智慧を有し、その智慧により広大深遠なる真理を悟った存在であることが、前面に押し出されて明かされましたが、『譬喩品』の「三車火宅の喩え」では、その釈尊が大慈悲をもって生きとし生けるすべての人を救う、ということが強調されているように思います。ところで、この喩え話は何を何に喩えているのか、そして、それは何を意味するのかを知る必要があります。まずその主たる項目(喩え)を羅列してみますと、つぎのようになります。・長者(父)釈尊・屋敷私たちが住む世界・火四苦八苦、煩悩・一門仏教の門(教え)・子供私たち、生きとし生けるすべて・東西に走り回る人生の始終・鹿車縁覚の教え・大白牛車一仏乗、真実の教え『法華経』  三乗、方便の教え・・牛羊車車菩声薩聞のの教教ええ⎩⎜⎨⎜⎧-79-   

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