『法華経』に学ぶ
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頌『自我偈』では「放ほう逸いつ著じゃく五ご欲よく逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん)」と表現されています。さて偉大で慈悲深い父である釈尊は、そのよう  ゅ  な私たちを看過することはなさいません。何としてでも救済し、悟りの道へと導こうとなされるのです。ところが私たちは、釈尊の導きの声を素直に聞こうとはしないのです。そこで釈尊は、私たちが興味を示す方法を用いて導かれました。すなわちそれが、羊車、鹿車、牛車に喩えられた三十歳成道から七十二歳までに方便の教えを説かれたことを指します。しかし、釈尊が最終的に授けて下さったのは「大白牛車」=「一仏乗」=『法華経』であったのです。 ところで、長者の広大な屋敷には「唯有一門(ただ一門あり)」、門は一つしかないとあります。広大な屋敷であれば、東門、西門、南門、北門、あるいは正門、裏門などいくつかの門がありそうです昧まい(智慧がなく、道理を理解できない)、すなわち 「三車火宅の喩え」に描写された様子が、あまりにも現実的であることに驚きを感じます。燃えさかる屋敷は、私たちが住む世界を喩え、屋敷を包みこむ火は、煩悩や欲望を喩えたものでした。釈尊から見れば、あまりにも幼稚で無む知ち蒙もう愚かな私たちは、欲望にまみれ、煩悩とは一体何であるかを認識することもできずにいます。認識できませんから、当然危機的あるいは絶望的状況にあることを知る由もありません。そして、そのことについて驚きも恐れもしないのです。ただただ遊び戯れて、自分が煩悩や欲望に焼きつくされることも知らずに、放逸に日常生活を送っているのです。ちなみにこのことを『如来寿量品』の偈堕だ於お悪あく道どう中ちう(放譬喩品第三⑦-80-

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