『法華経』に学ぶ
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が、たった一つしかないのです。つまりそれは「真実に至る道はただ一つ」ということを意味します。先章の『方便品』に「唯有一乗法だ一乗の法のみ有って、二無くまた三無し)」とありますが、この言葉に通ずるところです。毎回お話しするようで恐縮ですが『法華経』は一章一章が独立したものではなく、ほとんどの場合前章を引き継いで展開されています。さらには、複数の章にわたって同じ課題が取り上げられ、形を変えて説かれています。たとえば、『譬喩品』も第二章『方便品』の内容を引き継いで説かれていますし、それは以降の第九章『授学無学人記品』まで「すべての人は成仏できる」「真実の教えは『法華経』である」ということを、釈尊と弟子との対話形式で表現を変えて、繰り返し説かれています。このことは 『法華経』を学び、釈尊の御み意ころを知る上で大切なことですから、常に念頭において頂きたいと思います。無二亦無三(たさて「三車火宅の喩え」をとおして知ることは、釈尊が私たちを子供と見なされていること。そして釈尊は、子供たちを苦しみや迷いの世界から、何としてでも救済しようとされていることです。すなわちそこには、釈尊の無限で広大なる慈悲が、無償に私たちに注がれていると理解できるのです。ところが私たちは、釈尊の御意に気づくことなく、自身の置かれている環境に不安も抱かずに、煩悩や欲望にまみれながら日々を送っているということです。「三車火宅の喩え」を説き終えられた釈尊は「私こ    は、生きとし生けるすべての父親なのです。」と宣言せられ、再度「三車火宅の喩え」を詳細に話され「いま話したことをもう一度お話しいたしましょう」と重ねて詩句に託し舎利弗に話されます。この詩句(偈頌)は大変長いもので、釈尊の目に映る荒廃し燃えさかる屋敷(私たちの住む世界)の様子が、一層具体的に示されています。ではその-81-

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