『法華経』に学ぶ
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其ぐ有う求ぐ善ぜん友ぬ知ち識しき  「法華経に学ぶ」と題し『法華経』二十八章について、お話を申し上げます。このコーナーの近年の執筆者のお名前を拝見致しますと、肩書をお持ちになり、専門的に研究をされ、更には学校の教壇にお立ちになられる方が執筆をされておられます。一方の私はといえば、市し井せいあるいは、在ざい野やの一僧侶にて、学者でも無ければ、研究を専らにしているわけでもありません。普段は寺の住職として檀信徒と接し、お寺の法務、寺務等に勤いそしんでおります。さて執筆の依頼を受けたものの、そんな私が「法華経に学ぶ」と題し、執筆をしてもいいものか。分不相応ではないだろうか。またそれは『法華経』に傷をつけることになりはしないだ叙 文 法ほう者しゃ 徳ど随ずいく力り品ほきん演え』ん説ぜにつ(は其そ「の如にょ所し其ごょ聞も所しんょの聞もん如ご とく為い、父ぶ父ぶ母も母も宗しゅ、うし親し宗ゅんう 親しん、善ぜん友ゆう、知ち識しきの為ために、力ちからにし随たがって演えん説ぜつせん)釈尊から聞いろうか、と随分思案を致しました。ところで『法華経』第十三章『勧かん持じ品ほん』には、お弟子の誓いの言葉として「諸しょ聚じゅ落らく城じょう邑おうに、其それ法ほうを求もとむる者もの有あらば、我われ皆みな其その所ところに到いたって、仏ほとけの所しょ嘱ぞくの法ほうを説とかん)有りとあらゆる場所で、この教えを聞きたいと望む者があれば、私はその所に出向いていき、仏様(釈尊)より委嘱された教えを説きます。」とあり、第十八章『随ずい喜き功くたとおりに、また、教えて頂いたとおりに、自説を加えず、肝心なことを省かずに、両親や親族、更には友人等大勢の人に、自身の力の限り伝える。」とあります。また日蓮聖人は「仏ぶっ法ぽう有ありといへども僧そう有ありてな習らい伝つたへずんば、し正ょう法ぼう像ぞう法ほう二に千せん年ねん過すぎて末まっ我が皆かい到とう其ご所しょ 説せつ仏ぶっ所しょ嘱ぞっ法ぽう(も諸ろもろの聚じ ゅ落らく城じょう邑おう-1-

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