『法華経』に学ぶ
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以外の経典を信奉していれば、それは認められないことだったのです。日蓮聖人の『法華経』認識は一切経(釈尊が説かれたすべての教え)の中で、最上位に位置するものです。ですから『法華経』は「き経ょう王おう(お経の中の王)である」と確信されておられましたし、説き主である釈尊は、私たちにとって「主師親の三徳」を具えた唯一無二の存在だといわれるのです。だからこそ、釈尊に対して「従者が主人に対して忠勤を果たすように、弟子が師匠から教えを学ぶように、そして、子が親に対して孝を致すごとくにすべきである」と主張なさるのです。ところで「主師親の三徳」を具えられた釈尊は、のちの第十六章『如来寿量品』に至ると、「私は永遠不滅の存在であり、この娑婆世界にあって常に説法教化し、生きとし生けるものすべてを救済するのです」と明かされます。そうすると、私たちが生活を営む娑婆世界というところは、久遠の昔(思惟することのできない昔)から釈尊の領土であり、釈尊はその領土に住む私たちを教化の対象と定められて、過去、現在、未来と間断なく教化・救済活動をされていると理解できます。そのことについて釈尊は『自我偈』の冒頭では   に依頼されたわけでもありませんが、わたし自ら「私が悟りを得てから現在に至るまで経過した時間は、無量、百、千、万、億、載さい、阿僧祇という時間です。それは、あなた方がまるで想像できないほど経過しているのです。その間、私は常に教えを説き、計り知れない多くの人々を教化し続けてきました」と、久遠の昔に悟りを得て以来、間断なく教化活動を続けていることを明かし、末文には「私は誰が毎つねにこのように思っているのです。それは、何としてでも生きとし生けるものすべてを最高の悟りの道に導き入れたい、ということです。しかもそれは、徐々にではありません。一刻でも早く速やかに仏にしてやりたいと考えているのです」と-85-

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