『法華経』に学ぶ
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子し」という間柄にあるのです。ところがその関係浄じょう瑠る璃り世せ界かいに住む衆生とは全く関係が異なるので私たちに対する思いを教えてくださいます。さて、常住不滅の釈尊に「主師親の三徳」が具わっているということは、釈尊と私たちとの間には過去、現在、未来と三世にわたる必然的な関係にあり、それは宗教的絆として決して断つことのできないものだといえるでしょう。ところが、私たちはそれに気づくことがありません。日蓮聖人は「この娑婆世界に住む私たちは、到底計り知ることのできない遥かなる昔から、教主釈尊の愛子なのです。つまり、釈尊と私たちは「慈父」と「愛あいを知らずに私たちは不孝の失とがを冒し、今日までそのことに気づかずにいるのです。他の世界、すなわち西方極楽浄土や密みつ厳ごん浄じょう土ど、あるいは東方のす。遥か昔に縁を結んだ釈尊と私たちの関係は、天に浮かぶ月がおのずと清い水に影を宿すようなものなのです」と指摘なさいます。釈尊をな蔑いがしろにし、西方極楽浄土の阿弥陀如来や  東方浄瑠璃世界の薬師如来、そして密厳浄土の大日如来を本尊として帰依の対象とすることは「釈尊の弟子」「釈尊の愛子」としての自覚をお持ちの日蓮聖人にとっては、看過できない到底許されないことだったのです。そのことについての指摘は随所に見られます。たとえば「この国の人々は、一人も漏れず釈尊の弟子であり、その民であります。阿弥陀如来は、私たちにとって父母ではありません。主君でもなければ師匠でもない阿弥陀如来を愛おしい妻のようにもてなし、国主であり、父母であり、偉大な師匠である釈尊を捨て、さらには乳めのと母のような法華経を読まない人は、不孝者としか言いようがありません。阿弥陀如来は西の彼方十万億土にある西方極楽浄土の仏です。すなわちこの娑婆世界には縁のない仏ですから、まったく頼りになりません。わたくし日蓮は、仏教の教主は釈尊でなければならないということ、そし-86-

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