『法華経』に学ぶ
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て釈尊から頂いた恩を深く知りましたので、相手がいかなる人であったとしても、恐れずにこれらのことを進言します」とあります。また「私は釈尊の弟子としてこの世に生を享けました。その釈尊が説かれた教えの中でも、諸経の王である法華経にお給仕しています。釈尊を忘却し、正しい教えが衰えている現状を見ると悲しまないではいられません」とあります。ところで一般的に仏教学の立場からは、日蓮聖  悲)の三さん身じん」という仏の身体について三種類の方人のように「主師親の三徳」をもって釈尊の超越性や絶対性を論考し、主張することはありません。難しい言葉ですが「法ほっ(真理)報ぽう(智慧)応おう(慈面から検討し、その超越性や絶対性を主張するのが普通です。もちろん日蓮聖人はそれらを熟知しておられますし、その論法を用いたとしても、釈尊の超越性や絶対性が損なわれることはありません。しかし、それらを主張することよりも、釈尊と私たちの関係性を教える上においては「主師親の三徳」を示す方が、より現実的で具体的であったからだと思われます。おそらくその背景には、当時の社会の仕組み、いわゆる「封建制度」があったからだと推測されます。当時の社会は、現代の私たちが想像する以上に「主従関係、師弟関係、親子関係」は日常生活に深く根ざし、それは権威を持った揺るぎのない絶対的なものであったと思われます。それゆえに「主師親の三徳」を示し、釈尊と私たちの関係性を説く方が、現実的で具体的であり、実感し理解しやすいものであったからだと考えられるのです。さて『譬喩品』をとおして知ることは、私たちは釈尊と血縁関係にあるということです。それは釈尊が私たちの主人であり、師匠であり、そして親でもあるということです。すなわち私たちは、永遠不滅の釈尊に、常に見守られ導かれ、そして育まれているということなのです。-87-

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