三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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申しましょうか、日蓮大聖人に誠に申し訳ないと申しましょうか、当たり前じゃ無くなっている現況がある、そう思うのは私だけでしょうか……。例えば「時代に即応した……」「現代に……」なんてよく聞きますが、これも注意が必要でしょう。「時代・現代」これを末法という枠組みで考えれば、大丈夫だと思いますが「日蓮大聖人の鎌倉時代と、只今の平成とは違うんだ。」このように考えると脱線事故を起こしますよ。確かに、インド応現の釈尊の時代からは三千年、鎌倉時代からは、八百年という時間を隔てておりますが「在世は今にあり、今は在世なり」「未来もまた然るべき」ですよ。本仏の目から見れば、或は本仏の感覚からすれば、ともに末法という枠組みで、千年、二千年、それこそ万年なんて、ほんの一瞬だと思いますよ。仏教史観に「鎌倉、平成」なんてありませんよ。あるのは「正法、像法、末法」という歴史観ですよ。中でも法華経が志向するのは「末法」という時代ですね。  文永八年の法難、つまり龍口、佐渡法難ですが、この折に多くの弟子檀越が退転したのはご存知のことと思います。「千人が内、九百九十九が退転せり」とあります。まさに、教団崩壊の危機だったんですね。以前の法難は、大聖人お一人を的にした法難だったんですが、この法難は、弟子檀越にまでその刃が及ぶ難だったんですね。ですから、大勢が退転していきました。でも、退転者は、退転したとは思わないんですよ。「日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこはし。我等はやはらかに法12

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