三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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悪いことではないですよ。バラバラで、異心であるよりも、同心であるに越したことはないですよ。素晴らしいことですよ。でもね、日蓮大聖人からすれば、末代の凡僧、愚僧である私達が、檀信徒と「異体同心」になって何が出来るんですか。日蓮大聖人が仰る「異体同心」とは、私達と檀信徒、或いは私達出家同士の「異体同心」を言っているんじゃないんです。日蓮大聖人と私達、もちろん出家、在家問わずです。この「異体同心」を仰っているんです。私達それぞれが、日蓮大聖人と「異体同心」であれば、願わずとも私達の異体同心は適っているんですよ。「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。」とあるじゃないですか。「各々が同意ならば」とはありませんよ。私達が「同」となるべき対象は、主体は、日蓮大聖人です。誤解を恐れずに、お叱りを覚悟で言えば、日蓮大聖人を除いた、私達の同意なんて宗教的には「無益」ですよ。「別の才覚無益なり」だと思いますよ。日蓮大聖人と「同意」になることによって、『本尊抄』でいうところの「所化以同体」の姿になることができるんですよ。これ以上もなければ、これ以下もない。ただこれあるのみだと思いますよ。さて『報恩抄』で、三大秘法が述べられる箇所を読みますと「天台伝教の弘通し給ざる正法ありや。答云、有。求云、何物乎。答云、三あり。末法のために仏留置給。迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。」とあります。この三大秘法は、正像時代にも未だ広まることのなかった、弘通することのなかった法  14

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