三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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な流れがあったんだ。展開があったんだ。そんなことを思いながら読経する必要があると思います。また『方便品』は「告舎利弗」と舎利弗に告げ  わなければ、或いは、気持の上では、自分の名前られますが、この舎利弗を「自分のことだ」と思を入れて読まなければ、信仰的に法華経を理解することはできないと思うんです。ご妙判もそうですね。四条金吾さんや富木常忍さん、その他大勢のお弟子やご信者に与えられた書簡も、自分が「大聖人から頂戴したんだ。」そう感じて、そう実感して拝読しなければならないと思いますよ。そうすれば、趣きが大いに変わってくるのではないかな。最近そう思うようになりました。 『法華経』『ご妙判』を自分の中に入れると言いましょうか、まっ、自分が中に入ると言った方がイイでしょうね。自分が『法華経』『ご妙判』の中に入って、或は吸収されて、主体的に読まないと、釈尊のお気持ち、日蓮大聖人のお気持ちは理解できないと思うんです。霊跡参拝をしてもそうですよ。ただ参拝するだけじゃもったいない。例えば、身延山の御草庵跡に詣でましても「あぁ、この土の上に大聖人が立たれたんだ。その土の上に、自分も立っている。この杉は、大聖人御在世当時もあったんだろうか?もしあったとしたら、大聖人がお触れになったかも知れない。」そう感じることが、感じられることが、信仰者の姿じゃないでしょうか。そう感じることができれば、あのご草庵跡にある杉木立が、ただの杉木立じゃなくなってくるんですよ。日蓮大聖人がお触れになった杉、日蓮大聖人のお姿を18

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