三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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十九出家、そして三十成道という悟った始めがある、始覚仏なんです。ところで、私達の頭の構造からして「無限」と  です。例えば、このホワイトボードが「白」だとか「久遠」とかを理解することは出来ないらしい認識できるのは、赤やら黒やら、つまり白ならざる色があるから「白」だと認識できるんです。世の中が、白しかなければ「白」とは認識できないんですね。相対的に物事を見て理解しているらしいです。ですから、有限の時間に生きる私達は、「無限」であるとか「無始」・「久遠」ということを理解するのは、不可能らしいです。じゃぁ、どうすればイイのか。理解することは出来なくとも、信じることは出来るんです。そうです、信じることなんです。もちろん、この信じるということも「鰯の頭も信心から」みたな、低俗な信ではありませんよ。『大智度論』でしたか「無疑曰信」という言葉がありますが「無疑の信」「疑い無き信」なんです。法華経は、殊の外「信」が要求される経典なんです。先ほども、ちらっと申しましたが、「三止三請重請許説」の儀式あと展開される『方便品』も注意深く拝読すれば、舎利弗が「敬信」という言葉を連呼された後、仏は説法をなさいます。御承知の通りこの『方便品』も「汝舎利弗 以信得入」と、智慧第一といわれた舎利弗でさえ、頭で、智慧で理解することは出来なかったんです。「信」をもって理解、理解というより「信解」と言ったほうがイイでしょう。「信解」できたんです尚於此経 28

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