三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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さて法華経は『授学無学人記品』で、仏在世の衆生の教化は終わります。ですから、仏在世の衆生教化が目的であったとしたならば、法華経は『授学無学人記品』で幕を閉じてもよかったのであります。ところが、法華経は当然『授学無学人記品』では終わりませんね。注意深く経文を見ていきますと、次の『法師品』からは、趣きが少し異なり展開されていくことに気づきます。対告衆が、舎利弗や目連、いわゆる二乗と呼ばれる人から、菩薩に変わってきます。「爾時世尊。因薬王菩薩」「その時に世尊、薬王菩薩に因せて」と薬王菩薩を対告衆にして法師品が展開してまいります。そして「仏滅後」「我滅度後」「如来滅後」等との言葉が、頻繁に釈尊の口から発せられ、仏滅後のことが課題となって展開されていることに気づきます。ここに大聖人が「宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品属累に事極て」と『新尼御前御返事』でお示しくださいました「起顕竟」の法門が展開されてきます。或いは『御義口伝』にも説かれています。茂田井先生は「法華経の科段は、伝統的な分け方として、迹門、本門或は、序正流通、二処三会とあるが、在世の法華経と、滅後の法華経という分け方もできる。そして日蓮大聖人の法華経観は、本迹よりも起顕竟にあり、本化の教学は、起顕竟より発生する」と御教示下さいました。望月歓厚先生も「本化の教学は起顕竟に極まる」と仰ってました。日蓮教学を語る上で、この起顕竟はしっかりと、学ばなければなりません。余談ですが、日蓮宗の要品と言えば「序品、方   32

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