三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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しょうか。日蓮大聖人は「仏語を実語とせん」として、布  となるには国家公認でなければならなかった。勝教活動を展開されましたね。ご承知の通り『立正安国論』は、国主諌暁の書ですよ。諌暁しなきゃならない相手に、許可を願うって何かおかしくないですか。確かに歴史を見れば伝教大師は、大乗円頓戒壇建立の為に、嵯峨天皇に働きかけ、勅許を得ましたよ。それは、当時の時代背景として、必要不可欠のことだったんですね。当時は、僧侶手に僧侶となることができなかったんです。僧侶になるためには戒壇のあるところに出向き、戒を授けてもらい、国に認めてもらう必要があったんですよ。語弊がありますが、もぐりの僧侶は許されない、国家公認の僧侶となる必要があったんです。そんな事情から伝教大師は、大乗円頓戒壇建立が悲願だったんですよ。ご承知の通りこの大乗円頓戒壇建立は、伝教大師死後一週間後に認められますね。伝教大師が活躍せられた時代は、仏教史観からみれば、像法時代ですね。像法時代は、多造塔寺堅固でしょ。戒壇を建造物として建立することは、そういう時代の枠組みがあったのかもしれません。ところで『諸人御返事』というご妙判があります。これは、日蓮大聖人が身延にお入りなられてから「公場対決実現か?」との情報が入って「日蓮一生の間の祈請並に所願、忽ちに成就せしむるか。」と非常にお喜びになられて、お認めになられたお手紙です。ご真筆が現存しております。44

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