三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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品の文上と、寿量品の文底」ともいえます。「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。」というのがそれです。更にもう少し解り易く言えば「経文と仏意」と言っても差支えないでしょう。寿量品の文の底に沈められた、つまりお題目、これを「文底秘沈の法門」と申しますが、釈尊の御心が観心=お題目であるわけです。日蓮正宗は、この教観相対のところで、釈尊の  えと解釈するんですね。彼等は文上に顕れた法華教えと日蓮大聖人の教えを相対させます。つまり「文上」を釈迦の教法、「文底」を日蓮大聖人の教経は「劣」で、日蓮大聖人のご遺文が「勝」だとするんです。更には「彼は脱、これは種なり。彼は一品二半、これはただ題目の五字なり」の『本尊抄』の一文から種脱の相対を立て、釈迦の一品二半の法門は、仏在世の脱益法門であり、日蓮大聖人のお題目は、滅後の下種法門で、脱益よりも下種の法門が勝れていると主張するんですね。ここに種脱の勝劣を論じるわけです。で、ここから「釈迦脱仏、日蓮本仏」と言って、日蓮本仏論を展開していくんですね。一品二半の法体も、お題目の法体も、中身は同じです。化用が違うのです。「用」働きが違うのですね。これを「法体同、化用異」と申します。或は「一法の異表現」とも言います。いま「釈迦脱仏、日蓮本仏」と言いましたから、余談でありますが、ご参考までに申し上げますが「釈迦脱仏」を論ずるのは種熟脱、いわゆる「三益論」が舞台ですね。「日蓮本仏」を論ずるのは「本53

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