三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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すが、やはり先生は違いますよ。私なんて、何度読もうが、そんな細かなところは気付かないと思うんですよ。でもね「日蓮大聖人のことが知りたい」「日蓮大聖人のお手伝いがしたい」そう思って、真摯にご妙判を拝読すれば、自ずと光明が差してくるのかも知れません。「ここだぞ!」という大聖人のお言葉が聞こえてくるかも知れません。そういえば、立正大学で学んでおります時に、北川先生が仰っておられました。「難しいからと言って、解ろうとしなければ何も解りませんよ。解ろうともせずして、解らない、難しいって何事ですか。」「問わなければ、答えはありません。」「問うということが大切なんです。問いの宗学でなければなりません。」そう指導されました。こう言えば、聞こえは良ろしいですが、本当の事を言えば、私、怒られたんですけどね。その時は、そんなもんかな?くらいにしか思っておりませんでした。当時の私にとって、法華経や日蓮大聖人の教学  守をすれば、立派なお坊さんだ。更には、資格をを学ぶことは、ただ単に「単位取得」の為であって、それで信行道場に入り、僧階を取得して、無事に卒業できればいい。それで、どこかのお寺の住職にでもなって、法事や葬式をして、檀家のお取って、僧階を上げて、肩書の一つや二つもつければいいだろう。そんな風にしか考えておりませんでしたからね。今から思えば、日蓮大聖人はもちろん、学校の先生方にも申し訳の立たない、何とも恐ろしい、言葉では言い尽くせない、愚かな考えを持っておりました。56

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