三大秘宝について「本尊 戒壇 題目」
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卒業後、大阪の地に参りまして、ある会に出席しました時に、そこでは法華経や日蓮大聖人のことを真剣に話してるんですね。で、学校で習った教学用語が飛び交い、それについて真剣に学んでいるんですよ。「貴方の領解はどうだ」「私の領解はこうだ」「法華経には何て説かれてる?」「日蓮大聖人は何て仰っている?」「それは、何ていうご妙判だ?」「どの本に書かれてた?」……単位取得の為、卒業の為と思っていた私は驚きましたよ。また、そんなことをするのは、研究者や学校の先生の仕事と思っていましたからね。一般の教師が教学で盛り上がるなんて、信じられませんでした、異次元空間でしたよ。また、その法門を檀信徒研修会や何かの舞台で話すんですね。これもまた驚きでしたよ。そんなこと、檀信徒に話しても仕方ないだろう、って思ってましたから。まったく、日蓮大聖人のお手伝いをするどころか「城者として城を破るがごとし」「獅子身中の虫」のお手本のような人間でしたね。今、目の前に当時の私がいたら「そこに座れ!」って言って、三日三晩説教してやりますよ。 『寿量品』の良医治子喩で、使者より「汝が父、死しぬ」と告げられた失心の狂子は、「自ら惟るに孤露にして復恃怙なし」と、我が身を反省、自己認識をして後「心遂に醒悟」し、良医の薬を服し「毒病皆癒」しますが、まさにそれだと思いました。自己改革と申しましょうか、蘇生するためには、一旦、自分を否定しなければならないんですよ。これが無いと人は成長しませんよ。本を読むことも大切でありますが、何千、何万冊の本を読 57

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